野太刀自顕流

【薬丸流】

のだちじげんりゅう【やくまるりゅう】

事務局

共研舎道場

所在地

鹿児島市上之園町20-17

道場

野太刀自顕流研修会

共研舎道場

所在地

鹿児島市上之園町20-17

自彊学舎道場

所在地

鹿児島市薬師町2-34-24

鶴尾学舎道場

所在地

鹿児島市新照院町34

青雲舎道場

所在地

始良市加治木町日木山311

野太刀自顕流【薬丸流】

のだちじげんりゅう【やくまるりゅう】

由来

平安時代始祖の伴兼行が薩摩に下向(九六九年)ここに野太刀の業を伝え以降は肝付家、薬丸家へと継承された。


戦国時代、薬丸兼成は文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いなどで活躍し、その孫の兼陳は示現流に入門 (一六二〇年)、以降の薬丸家惣領もそれに習い示現流の門弟となるのを常とした。しかし、その六代後の兼武は専ら野太刀の業に研鑽を重ね、野太刀自頭流を名乗るが、藩の忌諱に触れ屋久島に流配死した(一八三五年)。


兼武の子兼義は当流を継ぎ、その実力が藩にも認められ剣術師家に取り立てられた(一八四二年)。又、兼文と共に「野太刀自顕流掟」を記し(一八六四年)、郷中に組み込まれ甲突川沿いの下級藩士の多くが当流を修めた。桜田門外の変(有村治左衛門)、寺田屋事件(大山綱良、奈良原繁、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門、山口金之進)、生麦事件(奈良原喜左衛門、海江田義)など明治維新への引き金を作り、戊辰戦争では参謀や監軍、隊長隊士などが活躍した為「明治維新は薬丸流で叩き上げた」と言われた。


西南戦争では桐野利秋、別府晋介、篠原國幹、辺見十郎太、貴島清、池上四郎、大山綱良などの多くの門弟を失ったが、西郷従道、野津鎮雄・道貫、仁礼景範、高島鞆之助、西寛二郎、大迫貞清、柴山矢八、東郷平八郎、田中国重、財部などが中央に残り県内では特放で出獄した野村忍介が近代化に尽力した。その後、郷中が学舎に改称され学舎を中心に教授される(一八九二年)。


大正・昭和年間は、薬丸兼文及び兼吉の高弟である奥田眞夫、勝目清、曾木豊二等が活躍したが、戦後になると沖縄戦で嫡男兼教の死去により、「自顕流宗家は私一代で終わりとする」と宣言し兼吉を最後に嫡流としての相伝が途絶え宗家は廃止となった。(二〇〇八年兼吉の孫の樋之口氏より文書類が鹿児島県歴史資料センター黎明館へ寄託された)しかし、高弟らがその技と精神を継承し奥田眞夫と伊藤政夫の尽力により、最後の宗家となった薬丸兼吉の了承のもと共研舎に野太刀自顕流研修会(一九五七年)を設立して現在に至る。

伝承系譜

薬丸兼成
ー兼利
ー兼陳
ー兼福
ー兼慶
ー兼雄
ー兼中
ー兼富
ー兼武
ー兼義
ー兼文
ー兼吉
—奥田眞夫
—伊藤政夫

伝承技

続け打ち、懸り、早捨、抜き、打廻り、長木刀、槍止め、小太刀